マニアと呼ぶにはおこがましいですが、三国志を皮切りに色々と中国史に興味を持ち、そっち系の小説をよく読みます。
多くの方がそうであるかとは思いますが、人物伝が大好きですね。
そんな中国史の人物伝を読んでいくうえで必ず登場するのが「字(あざな)」です。

あざなってそもそもなに?

あざなは本名以外に使う名前で、本名は主君や親が呼ぶ名前で、
字はそれ以外の場所で用いる名前のようですね
(家庭内でのことと、一般社会で起きたことは別次元での話みたいなこともあるから、
それゆえに分かりにくいんだろうな、この国)。

名前は親がつけますが、字は自分で決めていたようです。
また、この字と本名は「関連している文字」を使うのが通例であったようですね。
ただ、このルールも「必ずしもそうでないといけない」というわけではなかったようですが。

勝手にですが、例として(個人的にそうだろうな、と思うもの)

  • 趙雲 子龍(雲と龍)
  • 徐晃 公明(晃と明)
  • 岳飛 鵬挙(飛と鵬)
  • 張飛 鷁徳(飛と鷁)※翼徳は演技上のもの。史実では益徳だが、実は「鷁」ではないかと。
  • 鄧芝 伯苗(芝と苗って強引???)

パッと思いついたので、これくらい。
興味深いのは呉の名将 陸遜の孫に「陸雲」という人物がいるんですが、彼の字は「子龍」なんですね。
絶対に「趙雲 子龍」にあやかった(パクッた)だろ、みたいな。

2020/04/09 上記、陸雲の字ですが、「士龍」のようです。すいません、間違えて記載しておりました。
資料として使っていた書籍の誤植のようで、陸抗の息子は6人いるのですが、長子陸晏は不明、次子陸景が士仁、三子陸玄も不明、四子陸機が士衡、末弟陸耽も不明。で多くは士が使用されているようで、そうなりますと、子龍も士龍が正しいと思われます。申し訳ありません。

現代の日本語にも名残があります

ほかに字では「兄弟の順番」を表すこともあります。
これは今でも使われていますが、例えば自分の親の兄や姉は「伯父、伯母」と表記しますし、親の弟や妹は「叔父、叔母」と表記します。
この「伯」や「叔」が順番を表しており、上から順に「伯・仲・叔・季」となります。
「実力が伯仲している」の「伯仲」もこの「伯」と「仲」からきています。

管仲という名臣がいますが、彼の本名は管夷吾であり、仲は字です。
つまり、兄がいた、ということがわかります。
また、2番目でも、その下に弟がいない場合は末っ子を表す「季」を用いる場合があるので、彼には弟がいた、ということもわかります。

前漢を打ち立てた劉邦は「劉季」とも呼ばれていました。
そのため、兄が他にいたことがわかります。
そういったところから、史書に登場していなくても字を見ることで兄弟がいたことがわかります。

他にもある順番を表す字

この「伯仲叔季」の他にも順番を表す文字があります。
それは「孟」です。
一番わかりやすい人物で言うと曹操の字が「孟徳」ですね。
この「孟」は「後継ぎ」を示す意味合いが強く、曹操には兄がいたようですが(おそらく妾腹だったのでしょう)、彼が曹家を継いでいます。
長幼の序で、一番上が家を継ぐことが多いので「伯」と「孟」が分かりづらいですが、こんな感じで使い分けられます。

この伯仲叔季でおもしろい使われ方をしてるのは孫家でしょう。
孫堅の正妻の子は4人いますが、上から

  • 孫策 伯符
  • 孫権 仲謀
  • 孫翊 叔弼
  • 孫匡 季佐

何が面白いかっていうと伯仲叔季がきっちりと使われている上に、全て政略や軍事(特に軍事の色が強い)に関わる文字が名前と字に使われている、ということ。
孫家の性格がにじみでています。

4人以上いる場合は?

では、4人以上子供がいた場合はどうなるのか?
「季」の下には「幼」の字が使われることがあったようですね。
あの「泣いて馬謖を斬る」で有名な「馬謖」の字は「幼常」で、
その長兄である「馬良」は「伯常」です(馬良は「白眉」で有名な人物)。

他に4人以上子供(兄弟)がいて順に字をつけている人物としては司馬家と夏侯家(夏侯淵の息子)がいます。

司馬家
司馬朗伯達・司馬懿仲達・司馬孚叔達・司馬馗季達・司馬恂顕達・司馬進恵達・司馬通雅達・司馬敏幼達

夏侯家
夏侯衡伯権(?)・夏侯覇仲権・夏侯称叔権・夏侯威季権・夏侯栄幼権・夏侯恵稚権・夏侯和義権

まぁ、これ見る限りでは自由なんですね。ただ、「幼」まではよく使われていたのかな。

字の付け方から見る、性格の考察

最後に、この「夏侯淵」なんですが、魏の名将です。
彼の字は「妙才」。

類まれなるという意味あいの「妙」に才能の「才」、
そんな字を自分でつけるんだから、よほど自信があったのかなって。自分に。

確かに彼の戦歴は多く、武官としてはトップクラスの司令官だったと思いますが、
度々、自ら戦場に赴き(本営ではなく現場に出陣)、
曹操からは「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」とたしなめられていたそうです。

そんな自信が彼の足もとをすくい、
定軍山に散ることになったんじゃないかな、なんて想到するわけです。

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