天に問う

第一章 「起つ者」

 

少年・起

――衛国・帝丘。冬の終わり、氷雨。

少年は黙って父の言葉を聞いていた。
「お前は“起(たつ)”にはなれん。世に問う器ではない」

父の厳しい眼差し、その隣で冷笑する兄。
少年の胸に生まれたのは、怒りではなかった。
ただ、うすら寒いほどの虚無。

少年の名は、起(き)。
衛の末家・公孫氏の屋敷に育つ、次男である。
だが、いまやその誇りも、家の格式も、年久しく衰えていた。

少し、衛という国について触れておこう。
衛国は、周王朝の礎を築いた文王・姫昌の九男である康叔(衛康叔、康叔封)に始まる国である。
本来、康叔がこの地に封ぜられる予定はなかったが、後の情勢の変化により運命的にこの地を治めることとなる。

殷を滅ぼして周を建てた文王の次男・武王(姫発)は、殷の旧都・朝歌に紂王の子・武庚と禄父を留め置き、名目上は旧殷民の慰撫を任せた。そして、その武庚を監督し、殷の地を統治させるために、自らの弟たち――三男の管叔鮮、五男の蔡叔度、八男の霍叔処――を派遣し、ともに統治する任を与えられた。彼らは「三監」と呼ばれ、形式的には武庚を補佐する立場であったが、実際にはその動向を監視する役目も担っていた。しかし、ほどなくして武王が若くして病に倒れ、幼い成王が即位すると、四男の周公旦が摂政として政務を執ることになった。兄の管叔はこれを簒奪の企てと疑い、三監の弟たちと共に武庚を擁して反乱を起こした。いわゆる三監の乱である。

乱は三年に及び、最終的には周公旦自らが東征して鎮圧。管叔と武庚、禄父は誅殺され、蔡叔は流刑、霍叔は庶人に落とされた。これにより空白となった殷の旧地には、九男の康叔が任ぜられ、殷の都であった朝歌(現・河南省淇県)を拠点とした新たな封国「衛」が成立した。

康叔は、周公旦から「康誥」「酒誥」「梓材」という三つの訓戒を与えられ、これを政治の基本とした。若年ながらも善政を敷き、民に慕われた康叔は、後に成王からも「司寇(司法長官)」として起用され、王室の宝物を賜るなど、その徳を高く評価された。

以後、衛国は周王朝を支える有力な諸侯国の一つとして位置づけられ、第8代頃侯の時には侯爵に、第10代の武公の代には、周の幽王が異民族・犬戎に討たれた際、衛軍を率いて討伐に参加し、その功績で「公」に叙された。

しかしながら、時代が下るにつれて衛は次第に衰退し、内紛も相次ぐ。そして、紀元前660年、異民族・翟(狄)の侵攻により衛は一度滅亡するが、覇者・斉の桓公の支援によって再興を果たした。
とはいえ、復興後の衛は旧来の威光を取り戻すことなく、趙・韓・魏といった新興国の勢力下に置かれる半属国へと転落。紀元前346年には爵位を「公」から「侯」へ、さらに紀元前320年には「君」へと引き下げられ、支配領域も濮陽一帯のみに縮小されるに至った。

そのように、周の威徳が揺らぎ、力ある国々が覇を競い合う戦国の世において衛は往年の威はすでに失われ、かつて周の柱石と謳われたその姿は、もはや影のごときものとなっていた。

起が生まれたのは、ちょうどそのような衛の末期、帝丘から東へ半里ばかり離れた、学館と書庫を抱く士大夫の邸であった。
父・公孫粛は、衛の礼楽を重んじる士であり、筆を執ることで国に仕える家系の流れを汲んでいた。
兄の成は、幼くして史書を読み、父の期待を一身に背負うことに何の疑いも持たぬ、才気あふれる子であった。

だが、弟の起は違った。
書の間に閉じ込められるよりも、庭の柿の木に登り、屋根を渡って鳥を追うことのほうが多かった。
書架に並ぶ典籍よりも、老従者・柏が語る昔語りのほうに耳を傾けた。

「あっしは若い頃に、いくつかの戦場に出ましてねぇ・・・。立身出世を夢見て、諸国をまわったもんです。」

そう言って、遠い目をしながら滔々と語る柏の足は、もうまっすぐには伸びなかった。
起は柏と連れ立って郊外へ出ることを好み、谷を越え、川を渡り、野辺に寝転んでは雲を見た。
柏もまた、学問に集中出来ない起を何かにつけては外へ連れ出し、自然や人と触れ合わせた。

旅商人が町にやってきた、と聞くと、起は柏にねだり、小銭を握って干し果を買った。
商人は時折、東西の世の話をする。その商人は秦から来たそうだ。
なんでも秦は西の蛮国だったが、その蛮国である秦を、法と令をもって国を変えた男がいることを聞いた。その男の名は「商鞅」といい、起は商鞅の名を初めて聞いた。

「商鞅はな、衛のお人だったそうだ。魏で仕官されようとしたが、叶わず、秦へ行って秦を変えたひとさ。」
「商鞅ってどんな人なの?」
「秦を強くしたお人だが、とても冷酷無比で血も涙もないお人だったと聞いているぜ?」
「商鞅はなんで秦へ行ったの?」
「秦には、耳を傾ける君主がいたからよ・・・。」

商人は急に小声で耳打ちしてきた。

「でもな、この国で商鞅の名前を出すのはやめときな、坊主。」

商人はそれだけ言うと、「今の話は忘れちまいな」とだけ言い、足早にその場を去っていった。

何故、商人が商鞅の名前を避けたほうがいいと言った理由はわからないが、その夜、起は「商鞅」のことが頭から離れなかった。
なぜ、商鞅は衛を出たのか、なぜ秦だったのか、法と令とはなんなのか、わからないことだらけだったが、「商鞅」という人物に強烈に興味が湧いた。
このとき、起は十にもならぬ年であった。

 

柏と商鞅

起は以前より学問に打ち込むようになったが、兄のそれとは違っていた。法とは、令とは。国を強くする、というのはどういうことなのか。
兄・成が衛の史書を読み耽る間、起は父に法や、令、秦の歴史、商鞅のことを聞いた。が、父は何も答えてくれなかった。
学問に興味を持ったことを父は褒めてくれたが、起の問いには苦々しい顔をするだけだった。

「柏、商鞅って人はどんな人だったんだろう?」

ある日、出かけた先の川べりで日を浴びながら、起はぽつりと呟いた。
隣でひなたぼっこしていた柏は、一度目を細め、そして静かに語り出した。

「商鞅さまですか…。まだあっしが若い頃ですが、商鞅さまのお邸にお世話になっておりました…あの方は、とても厳しく冷酷な方のように語られることが多いが、我々のような下々のものには優しかった。奥方様もとても美しい方でまるで天女のような方でした。朝から深夜まで、秦のために働かれておりました。」

「お前、商鞅に会ったのか?」

起は思わず身を乗り出した。
柏はふっと笑い、「会ったなんておこがましい」と手を振った。

「お邸で働かせていただいた給仕のひとりですよ。大きなお邸でした。いちどだけですがね、お近くでお話を聞く機会がありました。秦の文官が商鞅さまのお邸を訪れたときにたまたま庭先で商鞅さまのお話を聞いたことがあります。まるで、言葉の一つひとつが刀みたいでね。秦の文官は顔をしかめてました。あっしは…こりゃ、この人、命を賭けてんなぁ、って、そう思いましたよ。」

起は興奮した。生きた商鞅を知っている人間が目の前にいるのだ。柏は世間が知らない商鞅を知っている。
柏は眼の前にいる少年の羨望の眼差しに根負けしたように商鞅についての記憶を語りだした。

「商鞅さまは、ちょうど起さまと同じく衛の公族のご出身で、若き日は公孫鞅と名乗られておりました。かつて魏の宰相・公叔痤さまに仕えておられましたが、公叔痤さまが病に伏された折、その後継として商鞅さまを主君である恵王に推挙し、あわせて『もし彼を用いぬのであれば、他国に仕えて魏に災いをもたらすゆえ、誅すべきである』との諫言も残されたそうです。」

起は驚いた。魏は大国である。自身がいる衛はもはや魏の半属国状態である。商鞅とは、そんな魏の宰相に「次の宰相に」と推挙されるような人で、そのように危険視されるほどの人物なのか。
しかし、ではなぜ、魏ではなく秦なのか。

「ですが、恵王さまは公叔座さまからの進言を『耄碌した老人の言葉』として取り上げなかったようです。公叔座さまは商鞅さまを呼び出し、『王にお前を次の宰相に、と推挙したが取り合っていただけなかった。採用をしないのであれば、他国へ行き魏に災いをもたらすから誅殺すべき、と進言した。お前はすぐさまここを発て』とおっしゃったようです。」

我が衛のような小国の、しかも傍系の公族が魏のような大国に仇なす存在になる・・・起の頭では到底想像つかなかった。
柏は続ける。

「商鞅さまという方は身体は細く、武技が得意とかではなかったのですが、とにかく豪胆な方でして、『私を採用せよという言葉を王が取り上げないならば、私を殺せという言葉も王は取り上げませんよ』と笑って返事をされたそうです。あっしはこの話を聞いて、なんて賢く、なんて肝が据わったおひとなんだ!と驚きましたよ。」

起のなかでおぼろげにあった商鞅が形を成してきた。その話が本当なら商鞅とは衛が誇る英雄ではないか。
(衛の公族に生まれた者が、魏の王にすら恐れられる。そんな人物が……本当にいたのか。そんな男が衛にいて、そして……秦の礎を築いた・・・?)
(なぜ、父上も兄上も、その名を語らぬ? 誇らぬ? なぜ、衛は、かの人を忘れてしまった?)

柏の語りが続く中、起はただ黙って聞いていた。冷たい風が川面を撫でていたが、彼の耳にはそれが届かない。目の前の川の流れも、葉の隙間から差し込む陽光が水面に揺れる様子も、すべてが遠く感じられた。商鞅の話が、彼の心に深く刻まれていくのを感じていた。

「その後、伝手を頼って秦に赴かれ、時の秦王・考公さまに才能を認められ、ついには宰相となられたのです。
しかも政務だけではございません。商鞅さまは魏にも攻め入り、大勝されたこともあります。その功績により、秦王より“商”と“於”の土地を賜り、それ以来“商鞅”と称されるようになりました。」

起の胸に、商鞅の姿が次第に像を結んでいく。
衛という辺境の小国に生まれながら、その才を魏の名宰相に見出され、そして王に見限られるや否や他国に渡り、その地で宰相にまで上り詰めた――。
それは、どの英雄譚にも勝るほどの生き様に思えた。

「なんと、商鞅というお方はとてつもない英雄ではないか!素晴らしい!
私も、商鞅のような人物になりたい! 商鞅は今も秦におられるのか?」

起は興奮のまま、柏に一歩詰め寄る。今も生きているのなら、どこかで会えるかもしれない。
そんな淡い期待に胸を膨らませていた。

柏はその視線を受け止めきれず、ふと目を逸らすと、ほんの短い沈黙を挟んで、少し声音を落とした。

「……いえ。もう、随分と前に亡くなられております……。
――起さま。今日はこのあたりで戻りましょう。あまり遅くなると、お父上に叱られてしまいます。」

そう言って柏は、いつになく穏やかな口調で促す。
起は、どこか遠くを見つめるような柏の声に、言葉を飲み込んだ。

ふと見ると、柏はそっと地面に杖をつき、重心を移しながらゆっくりと歩き出していた。
片足をかばうようなその歩き方に、起はこれまであまり意識したことのなかった柏の過去を、初めて思った。

 

歴史AI小説「天に問う」 第二章~去る者~ 

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